PRキーマンとの出会い

橋本龍太郎氏(元総理)

薬害エイズ訴訟解決を妨げず

橋本龍太郎・元首相が亡くなりました。

68歳。登山や剣道で体を鍛えていた人だけに、ちょっと意外な、早めの寿命でした。
宴会を好まず、仕事が終わるとさっさと帰宅して、趣味のプラモデルやカメラをいじっている、と記者の間でも評判の健康さでした。

小泉首相のようにインタビューしたことはなく、直接は知りませんでしたが、間接的にいくつか影響を受ける羽目になった人でした。

その1:
私がブレーンをしていた菅直人氏が橋本内閣で厚生大臣になったとき、菅氏は「薬害エイズ訴訟の解決を最優先課題にする」と決めていました。

当時自民、社会、新党さきがけの連立政権で、菅氏は希望して厚生大臣になったものの、厚生族議員の親玉である「ハシリュウ」がトップにいて、はたして官僚を動かせるものか、
私たち周りは半信半疑でした。
ところが、初期の閣議の場で、橋本首相は菅氏に、「私が初めて大臣になったのは厚生大臣だった。
しかし何もできなかった。
今回は私がバックアップするから、思う存分やってくれ」といったのです。

本来もっとも敵(厚生官僚)側に立ってもおかしくない橋本氏が、こうした態度をとったおかげで、菅氏は自分の信念の赴くままに権力を振るい、訴訟を和解に導いたのでした。
これはかなり大きかったと菅氏もいい、私もそう思います。

金融ビッグバンをスタート、自由化へ

その2:
98年に、「フリー(自由)・フェア(公平)・グローバル(国際化)」を柱とする、金融ビッグバンを企画・立案・実行しました。

大蔵省(現財務省)の護送船団行政のもと、銀行など金融機関は、役所のいうことだけ聞いていればいい、金融機関同士の秩序が決まっている、顔色をうかがう「MOF担」(銀行の役所担当)がエリート、という時代が戦後ずっと続いていました。
おかげで、英米をはじめとする世界の金融マーケットからは、「(英国がビッグバンをしたときから)20年も遅れている」といわれる始末。
これをなんとかしようとしました。
当時自分のテーマを探していた私は、「これだ!」と思いました。
金利の自由化、金融商品の自由化、金融機関同士の競争が始まる=ニュースがたくさん出て面白くなる、と直感しました。
そして、そのとおり山一證券・拓銀などの破綻、不良債権処理、ITバブル、ゼロ金利、資産運用ブームなどへつながっていきます。

私の24冊に及ぶ著書の大部分は金融関連であるだけに、経済ジャーナリストの端緒になったことになります。

衆院選に勝利、個性でPR

その3:
薬害エイズ訴訟が解決したあと、衆議院総選挙がありました。

菅氏が民主党を創設したので、私はそこに参加、成り行きで衆議院議員候補にもなりました。
(とにかく候補者が足りなかった。菅氏との1回の食事で決まってしまった。笑)
橋本首相は今度は倒すべき敵になりました。
選挙戦で痛感したことは、橋本首相の人気でした。
とにかく中高年の主婦層の人気がすごく、「リュー様」と呼ばれ、ポマード頭と苦みばしった表情、ときおり笑うとかわいい、などと、面と向かっていわれ、「こりゃ、勝てないなあ」とがっかりしたものです。

菅、鳩山両氏の若さは新鮮で、それだけがこちらの頼りでしたが、とうてい及ぶものではありませんでした。
保守本流の経世会トップであると同時に、国民的人気もあり、このあたりは、今の小泉首相につながるところがあります。
日本の首相がその個性を持って、国民に支持を得る、最初になった気がします。
「トップPR」といってもいいでしょう。

小泉氏と違って、本人はあまり意識しているようではなく、パフォーマンスをした気も、PR戦略もなかったでしょうが、自民党らしくない個性が受けました。
とくに、選挙は大衆の支持を得ないと勝てません。大衆とは、その辺のオジサン、オバサンであり、子供のことです。
ホワイトカラーは高邁な政策、机上の論理、頭での議論が好きで、ともすれば大衆を軽視しがちですが、社会を動かしているのは、いつの時代も一部のエリートではなく、名もなき大衆なのです。

「賢くはないが、バカでもない、絶妙なバランス感覚の持ち主」
(田原総一朗氏)である大衆の支持なくして、政治も、そしてビジネスも成立しえない。
ともすればビジネスマンも陥りがちな表面的な上滑りの無力さ、きれいごとの薄っぺらさを体で認識させられた経験でした。

企業のPR、宣伝にしても、大衆(もっとも平凡に、平和に暮らしている大多数の人たち)の心を動かす、働きかける工夫がないと、失敗に終わる。
いまの仕事につながる教訓を得ました。